「勉強で知的操作の得手な人は高度な教育を受け、社会では大企業や研究職そして、医者・弁護士として知的職業に就いて社会で活躍し、不得手な人は苦労して職業に就き、社会の下働きで生活に追われてことを余技なくされている感がします。また、不得意な人の中には努力をして、その世界で上に立って頑張っている人もいれば、得手な人でも、せっかく得た知的職業に馴染めなく生活に追われたり、人としてどうなのかと思われる人もいますね。知的操作に恵まれ、人として、しっかりした世界観をもって頑張っている人、逆に、そうでない人がいるということなんですね。教育において世界観の醸成を醸す環境がしっかりとできているなら、世の中ももっともっと良くなるのでは考えます。人によって、それぞれ世界観が違うと思いますが、これが結果的に争いごとの火種になるように感じます。」
これは、私のヒトに対する見方の哲学の基本となっています。いつ、このようなモノの考え方になったかは記憶にないのですが、そのことを少し深掘りして見ました。
遡ること、1940年代~1950年代のスイスの心理学者ジャン・ピアジェの「操作(Operation)」や1956年アメリカの心理学者ギルフォードの研究発表が日本に紹介される際、「知的操作」として翻訳されたようです。それまでは、勉強ができない子供は一括りに「頭が悪い」と片付けられがちでした。しかし、心理学や脳科学が進歩するにつれて、「人それぞれ知的操作の得手・不得手(認知特性)がある。一律のIQだけで人を測ってはいけない」という教育的な配慮から、日本でも広くこの言葉が使われるようになったそうです。
人の知性を「一列に並べる(IQ)」に価値を見出すなら、今の生成AIの方が賢いのであって、必要なのは「人それぞれ異なる個性(世界観)を育てていく」ことなんだと、私は考えています。みなさんはどう思いますか。
知的操作と世界観










コメントを残す