コロナ禍から暮らしのはなし

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1.はじめに

「コロナ禍」の「禍」は「わざわい・災難」という意味ですが、2019年末からの新型コロナウイルス感染の流行で、その状況を指す言葉として使われています。これほどまでに長期化するとは予想だにしなかった出来事で、まさに「コロナ禍」で終息に先の見えない状況です。
そこで、以前に投稿した「生き方の方法論」により「新型」「コロナウイルス」「感染」という「具体」をもって「暮らし」の在り様を考えて見ました。
最初に、ここで使われている言葉を簡単に説明します。
具体と抽象:具体は分りやすいことで、自分が理解できるまで掘り下げること。理解できなければ、その人にとっては抽象です。
暮らしと生活:暮らしは過ごすことで、生活は生きること。生活は暮らしの一部で基本です。
物事:出来事のこと。
思惟:物事の根本を深く考えること。
観念:物事のもつ考えのこと。
考察:物事の考えを巡らすこと。
規定:物事を「これこれである」と定めること。
実存的:実際に存在すること。

2.物事の方法論

社会での出来事を理解するには、様々な知識が必要です。ところが、一見、この知識は物事の意味を指しているように見えますが、真意はその意味をもって「ものの見方・考え方」を巡らすとこにあります。この「ものの見方・考え方」の術(すべ)こそが物事の方法論になります。
先の投稿の中で「具体は現実の出発点であり、考察と観念の出発点。第一の道は充実した観念が発散させられて抽象的な規定になり、第二の道は抽象的な諸規定が思惟の手段で具体となるものを再生産する。加えて抽象作用が働かなければ第二の抽象は存在しない」と書かれている方がいると述べています。
第一の道:「具体」は「現実の出発点・考察と観念の出発点」であり、抽象作用により「充実した観念が発散させて抽象的な規定となる」
第二の道:「抽象的な規定」が「思惟の手段」で「具体」となるものを「再生産」する。と言う意味となり、この第一の道や第二の道の抽象により「具体」の再生産をする。そのことこそが物事の「ものの見方・考え方」と言うことになります。

3.具体の抽象作用と思惟

さて、ここでの具体と言うのは「わかりやすいこと」を指し、わかりにくいことは、もっと「わかりやすく」、自分が理解できるとこまで掘り下げなければならないことになります。
第一の道で「具体」を抽象作用(実在的なものの積み重ね)により規定。第二の道ではこの「抽象」を思惟の手段により具体を再生産することになります。
「新型コロナウイルスの感染」が社会で起き始めると、多くがそれは何??ということになります。そこで、このことを具体的に掘り下げて理解することから始まります。観念は理解することで「新型」「コロナウイルス」「感染」という具体を理解します。このことの抽象作用により、「これまでにない風邪の一種でワクチンはなく感染力が高く重症化や後遺障害又死亡に至る」という抽象が規定されます。この諸規定を思惟の手段により「市中感染率が高くなることで、どこで感染するか分からないので不要不急の外出は控える」ことで「新型」「コロナウイルス」「感染」の具体に対して「防止」を再生産するという事になります。

4.具体からかけ離れた抽象論議

新型コロナウイルスの現在の蔓延状況から、第一の道の抽象作用による諸規定により、第二の道である「思惟の手段による具体の再生産」を検証します。
そこで、第二の道では「市中感染が高くなることで、どこで感染するか分からないので不要不急の外出は控える」として「新型」「コロナウイルス」「感染」の「防止」と言う具体を再生産するに至ったとこです。
しかし、ここで問題となるのは「防止」に対して「不要不急の外出は控える」とした論議です。もし、第一の道である抽象作用を第二の道で思惟するならば「不要不急の外出は控える」ことで「防止」を再生産するとした論議にはならないはずです。
なぜならば、「感染者による市中感染が広がっており、不要不急の外出は禁止する」ことで「防止」を再生産することだし、ましてやGo To対策は「不要不急の外出」を助長するだけで論外となるはずです。まさに具体からかけ離れた抽象論議と言わざるを得ないと考えます。

5.暮らしのクオリティ

新型コロナウイルスの感染がワイドショーで毎日のように取り沙汰され「感染者による市中感染が広がっており、不要不急の外出は禁止する」という事には政府も含めて私たちに思惟を示していないのが現状です。医療と経済の板挟みにあって、国民に対してだらだら自粛要請する他力本願でいる場合ではないことを、これまで述べてきた方法論から理解できるのではないでしょうか。
一方、「コロナ禍」「住まい」「ストレス」の具体から「家族が家庭内で一緒に過ごすことが多くなり、暮らしの喪失感からストレスが高まっている」と規定され、「住まいでの個々の生活空間や過ごし方のクオリティを高める」と思惟し「コロナ禍」「住まい」「ストレス」の具体に対して「規制改革」を再生産するに至ったとこです。
海外では日本の家は「うさぎ小屋」に例えられるほど、小さくて狭い印象があるようです。狭い土地に小さい家という感じです。プチハウスと言って借家賃程度で一軒家を持つことが出来て、余ったお金で好きなことをして人生を送りたい。とのことのようです。この実態を見たときに都市計画法による土地利用規制が「うさぎ小屋」や「プチハウス」を生んだということが言えます。
「不要不急の外出は控え」蜜となる小さく狭いとこで体を寄せ合いながら過ごすには酷な話しであり、暮らしのクオルティを高めるために「規制改革」が求められているのではないでしょうか。

6.科学する力を養う

物事に対する「見方・考え方」が人によってそれぞれ異なります。どうしてこんな見方をするのか?どうしてこんな考え方をするのか?そんなことを感じることがあります。このことについて目の見えない子供たちが象の、ある子は足を、ある子は耳を、そしてある子はある子は鼻やしっぽを触って、象ってどんな動物だったかを聞くと、それぞれが触ったのが象であると主張する。そんな例えをすることがあります。
科学する力を養う。とくに目に見えない社会科学の分野では、社会においてこの力が問われます。方法論の解釈として象の足や耳。そして鼻・しっぽは「具体」です。それが「見方・考え方」の「現実の出発点・考察と観念の出発点」であり、象という「具体」となるものを再生産するという冒頭の話しになり、その力を養っていくことが大事だという事になります。
2020年12月22日記

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